キュレーターより: 以下のページは、キャシー・ラベル(Cassie LaBelle)が書いた素晴らしい記事から、許可を得て転載したものです。彼女のほかの文章は Medium で読むことができます。
私はトランスジェンダーなの?
訳注:この章は、北米・西洋の(しばしばキリスト教的な)文化のなかで育ったトランス女性が経験しがちな、典型的な状況を念頭に書かれています。文化的な背景が違えば、ここで描かれる感覚や歩みも変わってきます。あくまで一つの語りとして、批判的に読んでください。ノンバイナリーの人やジェンダー表現が一致しない人のなかには、この語りには当てはまらないと感じる人も多くいます。それでも、どう感じるにせよ、あなたの感覚はすべて正当なものです。
自分のジェンダーに疑問を抱き始めるよりずっと前から、わたしはこんな何気ない空想をしていました。仲のいい女友達の一人がわたしのところへやって来て、こう言うのです。「もうやめなよ。あなた、誰も騙せてないよ」と。
もし当時、誰かにその空想について問い詰められたとしても、「誰も騙せてない」とわたしが何を言いたかったのか、はっきり説明することはできなかったでしょう。心の奥では、それがおそらくジェンダーに関係しているのだとわかっていました。でも、わたしの口はその言葉を形にすることができませんでした。わかっていたのは、自分がほんとうの自分ではない誰かのふりをしているということ、それも、ぼんやりとした、受け身で、つかみどころのない感覚としてだけでした。
トランス女性として自分を受け入れ、長いカミングアウトの過程を始めたとき、わたしが何より望んでいたのは、誰かに「もう知っていたよ」と言ってもらうことでした。「気づいてくれて、ほんとうに嬉しい」と感激してほしかったのです。「何年も前から本当のことを知っていたよ。すごく明らかだったもの。あなたが男の子だなんて、どうしてみんな思えたのか、わたしには分からないくらい。これからやっと、ほんとうの自分として生きられるようになって、ほんとうに嬉しい」と。
でも、誰もわたしにそんなことは言ってくれませんでした。カミングアウトの過程はうまくいき、友人のほとんどは支えになってくれました。けれど、わたしが渇望していた外からの承認を得ることは、ついにありませんでした。友人や家族がわたしをトランスとして受け入れてくれたのは、わたしが「自分はトランスだ」と伝えたからです。わたしがこの二十年間、ほとんど存在もしていなかった男という、サイズの合わない衣装をまとって過ごしてきたことには、誰も気づいていなかったのです。
親友のリリーは、「エッグ・プライム・ディレクティブ(Egg Prime Directive)」 という言葉を生み出しました。これは、トランスの人々のあいだに、ジェンダーに疑問を抱いている人へその人がトランスかどうかを告げない、という暗黙の約束があることを表す言葉です。
ただ「あなたはトランスだ」と告げられると、それは否認の余地を生み、内面化されたトランス嫌悪によって築かれた防衛機制を作動させてしまいます。そして、その人をさらにクローゼットの奥へと押し込んでしまう可能性が高く、場合によっては露骨なトランス嫌悪者にしてしまうことさえあります。たとえそうならなかったとしても、本人の潜在意識が自分の違和を拒絶する余地が残ってしまい、「自分はただ操られた、あるいは騙されただけだ」と思い込ませてしまうのです。 ずっと効果的なやり方は、自分自身の違和の経験について語ることです。そうすれば相手は共通点を見いだし、自分のジェンダーについて自分なりの結論にたどり着けます。この掟が禁じているのは、相手のジェンダーを探る手助けをすることではありません。相手にジェンダーを割り当てることを禁じているのです。 もっと簡潔に言えば、マトリックスが何であるかは、誰かに教えてもらえるものではありません。自分の目で見るしかないのです。[1]
エッグ・プライム・ディレクティブに従わないトランスの人もきっとどこかにいるのでしょうが、わたしは出会ったことがありません。これは、わたし自身も含めてトランス・コミュニティ全体を一つに結びつけている、数少ないものの一つのように思えます。わたし自身、何よりも外からの承認を欲していたにもかかわらず、いまでは、ほんとうの受容は自分の内側からしか生まれえなかったのだとわかります。あなたがトランスだと告げることができる唯一の人は、あなた自身なのです。
ここに逆説があります。クローゼットにいるトランスの人のほとんどは、自分の内なる声を信じることがどうしようもなく苦手なのです。世界が自分をどう見ているかと、自分が自分をどう見ているかとのあいだに、つきまとう食い違いを抱えたまま一生を過ごしていると、「ほんとうのあなたは誰なのか」を他人に語ってもらうほうが楽になっていきます。たとえ心の奥底では、人生で関わるすべての人が自分のアイデンティティについて何か根本的な事実を見落としていると分かっていても、自分の声より他人の声に耳を傾けてしまうのを避けるのは、ほとんど不可能なのです。
そこで今日のわたしの目標は、わたし自身が自分を受け入れる助けになった情報や考え方の枠組みを、いくつかお伝えすることです。あなたがトランスジェンダーかどうかをわたしが告げることはできません。でも、あなた自身が歩んでいけるかもしれない道を指し示すことはできます。答えを差し出すことはできなくても、ふさわしい問いを投げかけてみることはできます。
相手がまだ自分自身に問いかけたことがないのなら、たとえ100%確信していたとしても、その人にトランスジェンダーだと告げるのは決して安全ではありません。性別違和について教えることもできますし、相手の感情とあなたの感情の共通点を示すこともできます。でも、ある人にただ「あなたはトランスジェンダーです」と言うことはできないのです。
なぜでしょう? たいていの場合、相手はあなたの言葉を信じないからです。
内面化されたトランス嫌悪は、「自分がトランスであるはずがない」あるいは「トランスであることは何か否定的で忌み嫌われるものだ」と、わたしたち全員に刷り込んできました。家庭内や育ちのなかから生じる圧力は、自分を受け入れることを極めて難しくしてしまうことがあります。
まだ疑問さえ抱いていない人に、あなたがその人をトランスジェンダーだと思っていると告げようとすると、自己防衛の機制が作動します。その人の潜在意識はその言葉を積極的に拒絶しようとし、その示唆はその人をさらにクローゼットの奥へ押し込むばかりか、そう言ったことであなたに敵意を向けさせる可能性さえ高いのです。多くのトランス嫌悪者は、自分自身がジェンダーをめぐる葛藤と闘っている明らかな証拠を見せていますし、自己防衛のためにかつてトランス嫌悪的だった経歴をもつトランスの人々も少なくありません。
たとえその人があなたの言葉を受け入れたとしても、本人に自分で気づかせるのではなくあなたが告げてしまったという事実そのものが、その人自身の潜在意識に、自分の違和への疑念を植えつける隙を残してしまいます。そして「この考えは誘導されたものだ」とか「自分はトランスだと信じ込まされたのだ」と思い込ませてしまうのです。誰かが自分はトランスだと知るための、唯一安全な道のりは、自分でそれに気づくことなのです。
最後に、トランスであることの目的そのものは、自己決定と自己実現にあります。ある人にトランスだと告げる行為は、その人が生まれたときに行われた割り当てと同じくらい強制的な割り当てに、まちがいなくなってしまいます。相手が自分自身を理解する手助けをしたいのなら、あなたの人生について話し、違和がどのように働くのかを伝え、このサイトを紹介し、そして相手が経験していることがシスの人々が抱えずに生きているものなのだと気づける方法を示してあげてください。
もちろん、相手が「わたしのことトランスだと思う?」と尋ねてきた場合は別です……そのときには、もうプライム・ディレクティブは適用されません。
いつものことですが、わたしはジェンダーをめぐるセラピーについて専門的な訓練を受けていない、ということをご理解ください。これはあくまで、わたし自身の素人なりの調べごとと個人的な経験——その多くはわたし自身の歩みや、ほかのトランス女性やジェンダーに疑問を抱く人たちとの会話——をもとに書いています。わたしが、三十代前半でトランジションした、かなりバイナリー寄りのトランス女性という立場から語っていることも心に留めておいてください。つまり、わたしにはまだ見えていないトランスの経験がたくさんあるということです。トランスマスキュリンの人やノンバイナリーの人、そしてほかの多くのトランス女性にとっては、事情が違ってきます。これは万人向けの専門家ガイドのつもりではありません。いまのわたしがあなたに差し出せる、精いっぱいのものにすぎないのです。
ほとんどのシスの人は、自分のジェンダーについてあまり考えていない、ということを考えてみてください
あなたがもう、自分のジェンダーに疑問を抱く段階にいるのなら——たとえそれが、「私はトランスジェンダーなの?」と検索して、結果が出る前にノートパソコンをばたんと閉じる、という程度のことだとしても——おめでとうございます。あなたはすでに、ほとんどのシスの人が一生かけても考える以上に、自分のジェンダーについて考えてきたのです。
わたしはシスの友人の多くに、自分の性自認(ジェンダー・アイデンティティ)について真剣に考えたことがあるかと尋ねてきましたが、十中八九、考えたことがないと言います。シスの人は、女の子だったらどんなふうだろうと年がら年中思いめぐらしたりしません。別の体で目が覚めたらどんなに素敵だろう、なんて空想にふけったりもしません。入れ替わり映画を思い浮かべて胸が高鳴ったりもしないのです。なかには、出生時に割り当てられた性別とは別のジェンダーの体だったらどんなだろうと想像したことのある人もいるかもしれませんが、そうした思考実験はほんの一瞬で、純粋に頭のなかだけのものです。
そこにはエネルギーがありません。彼らにとっては、ないのです。もしあなたがジェンダーについて考えるとき、不思議な種類のエネルギーを感じるのなら、それはおそらく何かを意味しています。
ほとんどのシスの人は、出生時に割り当てられた性別を積極的に気に入っている、ということを考えてみてください
最初はこれが信じがたかったのですが、シスの人は実際に自分のジェンダーを楽しんでいるのです! シス男性は男性であることが好きですし、シス女性は女性であることが好きです。彼らは、ひそかに「反対の」ジェンダーや、ジェンダーのない存在や、そのほか何かに生まれたかったと願ったりはしていません。すでに確認したとおり、彼らは自分のジェンダーについてそもそもあまり考えていないのです。
もちろん、ここには込み入った事情もあります。多くのシス男性は、有害な男らしさを息苦しく、ひどいものだと感じ、自分のジェンダーの問題ある社会的側面を積極的に拒もうとします。多くの女性は、ミソジニーや家父長制、そして古典的なジェンダー役割の専横に深くうんざりしています。「男であることを楽しむ」というのは、NFL(アメリカンフットボール)観戦以外のあらゆる場面で感情を押し殺さなければならないことを愛しているという意味では必ずしもありませんし、「女であることを楽しむ」というのも、男性の同僚に見下されたり、「で、結婚はいつなの?」と絶えず聞かれたりすることが大好きだという意味であることはまずありません。
でも、そういったものをすべて取り払ってみると、どうでしょう? シスの人はやっぱり自分のジェンダーを楽しんでいます。社会のなかで自分のジェンダーが演じられるあり方の、ある部分が違っていたらいいのに、とは思うかもしれません。けれど、もし入れ替えが選べるとしても、彼らはやはり自分に割り当てられたジェンダーを選びつづけるでしょう。残念なことに、クローゼットにいる多くのトランスの人は、シスの人が自分のジェンダーの腹立たしく問題のある側面について不平を言うのを聞いて、誰もが自分と同じように、自分のジェンダーをそこそこ嫌っているのだと思い込んでしまいます。
クローゼットにいるトランスの人はまた、「男であることが嫌いではない」と「男であることを楽しんでいる」を同じことだと思い込みます。「自分は男であることが嫌いではないから、トランスのはずがない」というような言い方をする、ジェンダーに疑問を抱く女性たちに、わたしはこれまで数えきれないほど出会ってきました。そして彼女たちは続けて、男性として見られることについて自分が嫌っている小さなことを、まるで自分のジェンダーが、どうやっても脱ぐ方法が見つからない濡れた靴下であるかのように、いくつもいくつも語り出すのです。
わたし自身、自分に対してカミングアウトする前は、男として見られることを積極的に憎んでいたわけではなかった、と聞けば、あなたは驚くかもしれません。男として見られることが、わたしにとって絶えざる苦しみの源だったわけではありません。それはただ……どうやらそれが自分なのだから、と、なんとなく一緒に生きていくことを覚えただけでした。男として見られることに積極的に傷つけられていると感じるのでなければトランスではありえない、と多くの人が信じていますが、その特有の感覚は、たいていトランジションを始めて、ようやく自分がほんとうは誰なのかを知ったあとになってからしか訪れません。自己受容の前は、出生時に割り当てられた性別との関係は、苦痛というよりも、むしろ断絶のように感じられることのほうが多いのです。
クローゼットにいるトランス女性が、「だって、男であることが嫌いなわけじゃないし、男には制度的な特権がたくさんあるでしょう。たとえできたとしても、自分から女性になることを選ぶとは思わない。だって、男性特権を手放したくないから」といったことを言うのも、わたしはこれまで数えきれないほど耳にしてきました。男性特権はもちろん実在します。でもそれは、男であることの永遠の不快さに耐えなければならない見返りとして男性に与えられる報酬ではありません。男性は男性であることを楽しんでいて、社会的特権がなくても、やはり男性であることを楽しむでしょう。もし、男らしさについてあなたが気に入っている唯一のものが男性特権だというのなら、それはおそらく何かを意味しています。
まだ自己受容していないトランス女性にとって、性別違和は違った見え方をする、ということを考えてみてください
何年ものあいだ、わたしは性別違和を感じていないのだから自分はトランスのはずがない、と思っていました。それは大まちがいでした。
自分が違和を経験しているのだと気づけなかった理由の一つは、魚が自分が水のなかを泳いでいると気づかないのと同じ理由でした——それがずっとわたしの人生のありようだったので、つねに違和を抱えているのが人間として普通のことなのだと思い込んでいたのです。わたしは自分が少し悲しげで、ちょっと変わっているということは分かっていましたし、男らしさをめぐる自分の経験が少なくともいくらかはジェンダー非定型的だということも分かっていました。でも、実際に何が起きているのかまったく見当もつかないまま、毎日毎日、違和の痛みと付き合っていたのです。どれだけ気分が悪くても、わたしはいつも、ジェンダーとはまったく関係のない、それなりに納得のいく説明をひねり出すことができました。
もう一つの問題は、性別違和が、自己受容前のトランス女性と自己受容後のトランス女性とでは、違ったかたちで現れることです。わたしはずっと、性別違和とは、鏡をのぞきこんで、女の子ではなく男の子が見返してくることから来る苦しみのことだと思っていました。でも、それはトランジションを始めるまで、わたしが実際には抱いたことのない感覚でした。自分が女の子だと気づくまでは、鏡に女の子が映っていないことに苦しむことなどできないのです!
それ以前の段階では、違和ははるかに微妙な、何十通りもの別のかたちで現れます。わたしは自己受容前の違和の経験について、ここに書きました。これはわたしにとって、これまでで最も多く読まれた文章になっています。もしあなたが自分のジェンダーに疑問を抱いているなら、ぜひ全文を読んでみることを強くおすすめします。
帰無仮シス説を考えてみてください
数学において、帰無仮説とは、誤りであることが証明されるまでは一般に正しいと仮定されるもののことです。それは初期設定の前提、たとえば「有罪と証明されるまでは無罪」のようなものです。たとえば、誰かに殺人の有罪を宣告しようとするなら、状況証拠だけでは足りません。一般に、圧倒的な物的証拠か、自白か、あるいはその他の明白な有罪の証拠が必要になります。
ナタリー・リード(Natalie Reed)によるこの優れた記事は、シスジェンダー(トランスではないこと)が、わたしたちの社会で帰無仮説として扱われていると論じています。わたしたちは皆、出生時に割り当てられた性別であると仮定され、そして自分のトランス性を証明するためには圧倒的な証拠が必要なように感じてしまうのです。そうでなければ、わたしたちは引き続き、自分はシスなのだと仮定しつづけます。
これは大きな枠組みで見れば理にかなっています。なぜなら、世界にはおそらくトランスの人よりシスの人のほうが多いからです。けれども、先ほど話したように、自分の性自認に心地よくいられる人のほとんどは、こうした問いかけをしていません。もしあなたがこの自己発見の段階にたどり着いているのなら、あなたが完全にシスではない可能性は、かなり高いのです。
帰無仮シス説は、シンプルで効果的な問いを投げかけます。天秤に乗せていた指を離したとき、あなたがトランスである可能性はどのくらいでしょう? もし「わたしはシスだ」と「わたしはトランスだ」という二つの仮説に等しい重みを与え、トランス性ばかりに立証責任のすべてを背負わせるのをやめたとしたら、あなたにとって何がしっくりくるでしょう? トランス性の証拠を探すのと同じやり方でシス性の証拠を探しはじめると、ときに幻想そのものが、がらがらと崩れ落ちることがあります。
もしあなたが女の子/男の子になりたいのなら、あなたはすでに女の子/男の子だ、ということを考えてみてください
ほんとうに、それくらいシンプルなことです。男性は男性でありたいと思い、女性は女性でありたいと思います。もしあなたが男性でありたいのなら、あなたは男性です。もしあなたが女性でありたいのなら、あなたは女性です。もしどちらにもなりたくない、あるいは両方になりたい、あるいはあるときは女性で別のときは男性でありたいというのなら、あなたはおそらく、ジェンダーフルイドかノンバイナリーの、何らかのかたちなのでしょう。
「でも、そんなこと……勝手にできるわけがない!」という声が聞こえてきます。でも、あなたは間違いなく、ただそうしていいのです。実のところ、これこそが、あなたが自分自身に答えなければならない、ただ一つの本質的な問いなのです。もしあなたが女の子になりたくて、自分のことをずっと男の子だと思ってきたのなら、あなたはおそらく女の子として生きるほうが幸せでしょう。トランジションが自分に幸せをもたらすかどうか、少なくともいくつかのステップを踏んで確かめてみる価値はありますよね?
自分を疑うことは、あなたがトランスかもしれないという可能性を否定するものではない、ということを考えてみてください
何年も——いえ、何十年も——わたしは自分がトランスではないと「分かって」いました。なぜなら、「本物の」トランスの人は、自分のアイデンティティに揺るぎない確信を持っているはずだ、と思っていたからです。わたしは、抑圧を前にしても毅然として、自分を女性として扱うようみんなに要求する、若いトランス女性という、つくられたイメージを内面化していました。
トランスであるとはこういうことなのだ、とわたしは思っていました。勇敢さ、度胸、そして自分のアイデンティティへの揺るぎない絶対的な確信。それはわたしではなかったので、わたしはトランスではありえなかったのです!
ところが実際には、トランジション前にこんなふうに感じている本物のトランスの人は、ほとんどいません。それどころか、わたしたちはほぼ全員、自己疑念に満ちた状態で旅を始めます。あの揺るぎない確信は、たしかにやがて訪れることが多いのですが、それには何ヶ月、あるいは何年もの自己受容と、(少なくともわたしの場合は)ホルモン療法(HRT)や社会的なトランジションというかたちでのさらなる承認が必要になることもあります。
でも、始まりのときには、わたしたちはほぼ全員、自分のジェンダーが混乱したぐちゃぐちゃのものに感じられます。クィアのアイデンティティを名乗れるほど「トランス」であるはずがないと感じ、トランジションするほど「トランス」だなんて、とても思えません。自分は間違った決断をしているのではないか、大げさに反応しているのではないか、自己保存のための小さな繭から一歩外へ踏み出すことは、人生で犯しうる最大の過ちになりかねないのではないか、と不安になります。
もしあなたがこうしたことをすべて感じているなら、あなたは仲間に恵まれています。わたしのセラピストは、「自分は十分にトランスなのか?」と問うことはあまりにもよくあることなので、ほとんどトランスであることの症状みたいなものだ、と冗談を言うほどです。自分の性自認は、それを問うことなしには解き明かせませんし、自己疑念はその過程の正常な一部なのです。
あなたのトランスとしての歩みは、世に広く受け入れられた物語に当てはまらないかもしれない、ということを考えてみてください
大衆文化はおおむね、語る価値のあるトランスフェミニンの物語は一つしかない、と決めてかかっています。それは、ごく幼いころに自分のアイデンティティに気づく、若いトランスの女の子の物語です。彼女は子どものころから人形やお茶会に惹かれます。姉のワンピースを着てみたり、化粧品やアクセサリーを買ってと母親にねだったりします。見た目もたいてい、ずっと女の子そのものです——女性的な顔立ち、小柄な体格、細身で中性的。子ども時代や思春期にトランジションしなくても、彼女はどういうわけか、大人になってもおおむね女性のような見た目のまま、たどり着くのです。彼女はいつも女装をしていて、ドラァグクイーンだったりするかもしれません。そしておそらく男性に惹かれていて、ひと時セックスワーカーとして働いた経験があったりするかもしれません。
これは正当で、よくあるトランスの物語です。わたしも、こうした型の一部または全部を経験した女の子たちを大勢知っています。この物語が何度も何度も語られるのには、やはり理由があるのです。
とはいえ、わたしが知っているトランス女性の大多数は、これとはまったく違います。多くは、ミニカーやテレビゲーム、おもちゃの銃と一緒の、いかにも典型的な男の子の子ども時代を過ごしました。多くは女装などまったくしたことがなく、ドラァグ文化にいくらか嫌悪感さえ覚えていました。多くは、大きな体や広い肩幅、もじゃもじゃの髭とともに育ちました。多くは男性にまったく惹かれず、一方でバイやパンセクシュアルの人もいます。多くは、二十代後半や三十代前半になるまで、自分のジェンダーを真剣に問いはじめませんでした。多くは、過去にトランスである「兆候」がまったくありません。彼女たちはただ、人生のすべてを、自分は男だと受け入れて過ごしてきただけなのです。そういうものだ、と。そうではなくなる、そのときまでは。
これはよくあるトランスの物語ですが、誰もほとんど語りません。こうしたトランス女性たち——わたしのような——が、自分たちの物語を打ち明けるようになったのは、ほんとうにここ数年のことです。それ以前は? 耳に入ってくる物語といえば、先ほどわたしが書いたものだけでした。だからこそ、あのトランスの物語が「正しい」もので、こちらの物語は「間違っている」ように見えてしまうのです。
でも、わたしたちのような女の子は、ものすごくありふれているのです。2003年のこの科学的研究(読む場合は、古い言葉づかいにご注意ください)は、何十年もトランス女性とともに歩んできたある研究者の観察を記録しています。彼女の経験では、トランス女性には三つの明確なグループがあり、そのうち二つは先ほどわたしが書いた「ずっと前から分かっていた」という道筋をたどり、一つはたどりません。彼女によれば、「グループ3」のトランス女性は典型的な男の子の子ども時代を過ごし、トランスである通常の兆候を見せない傾向があり、人生の後半でカミングアウトする傾向があります。なかには女装をする人もいますが、しない人も多く、もっと微妙で内面的なやり方で自分の違和に対処することを選びます。疑問を抱いていた時期にその論文を読んで、自分とそっくりなトランス女性がこんなにもたくさんいるのだと気づいたとき、わたしがどれほど肯定された気持ちになったか、言葉では言い尽くせません。
また、わたしたちのようなトランス女性がいまカミングアウトしているのは、はるかに多くの表象(リプレゼンテーション)と、はるかに多くのリソースがあるからだとも思っています。1991年、2001年、いえ2011年でさえ、トランジションへの道はずっと険しく、ほとんどの人が、公にトランスとして生きている人を一人も知りませんでした。そんな世界でトランジションを選んだのは、しないでいることがほとんど不可能な人たちだけでした。
ここ2021年では、自分のジェンダーを問うことが楽になっただけではありません。トランス・コミュニティやホルモン、その他の重要なリソースを得ることも、楽になっているのです。もし三十年早く生まれていたら、わたしはまったくトランジションしなかったかもしれません。もし三十年遅く生まれていたら、おそらくティーンエイジャーのときにトランジションしていたでしょう。自分が「ずっと前から分かっていた」かどうかなど、心配しないでください。この問いを真に自分に投げかける自由とリソースを、あなたがいま初めて手にしているのなら、なおさらです。
あなたが自己受容を妨げているものは、あなたのアイデンティティとは何の関係もないかもしれない、ということを考えてみてください
疑問を抱いているトランス女性と話していると、会話はやがて、彼女がトランジションを選んだ場合に直面しうる障害へと向かっていきます。「背が高すぎる/体が大きすぎる/毛深すぎる/醜すぎて、トランジションできないんじゃないかと心配」というのは、かなりよくある不安です。「家族に縁を切られる/パートナーに去られるんじゃないかと心配」というのも、よく耳にする悩みです。ほかの女の子たちは、自分のキャリアや学業、大学の状況をひどく心配しています。多くは、ホルモン療法(HRT)やトランス関連の手術の医療費を、とても払えないのではないかと恐れています。
誰もが——誰もが——自分には社会的なトランジションに対処するだけの強さがあるのだろうかと疑います。友人へのカミングアウト、女性の服を着ること、トランス嫌悪への対処……それは、ぞっとするほど厄介なものです。とりわけ、ただでさえ自分には立ち直る力(レジリエンス)が乏しいと感じていることの多い、クローゼットにいるトランス女性にとっては。そのすべてが、慢性的に手に負えないものに思えてしまうのです。
こうした不安は、しばしば自分自身に対するゲートキーピングというかたちで現れます。「自分はかわいい女の子には絶対なれないんじゃないかと不安だ」が、「トランジションしてもかわいくなれなかったらどうしよう。だから自分はトランスのはずがない」に変わっていくのです。何もない真空のなかで見ればこれはいくらか馬鹿げて見えますが、自己受容前のトランスの女の子は、自分はほんとうはトランスではないと自分に思い込ませるためなら、ときに文字どおり何でもしようとします。わたし自身、毎日ホルモン療法(HRT)を受けて女性の服を着るなんて、とても想像できなかったから、自分はトランスではないと固く思っていました。それは勇気ある人がすることであって、わたしのような人間がすることではない。だからわたしはトランスではありえない、と!
なぜわたしたちは自分にこんなことをするのでしょう? わたしはそれがすべて自己防衛のためだと思っています。わたしたちは、トランジションがとてつもなく難しいことを知っているので、「自分はトランスなのか?」という問いに向き合いはじめる気にすらなる前に、文字どおり世界中のほかのあらゆることを試そうとするのです。わたしたちは、真実に強く抗うとても強力な自己防衛の声を育てます。そうすれば、その次に来るものへの恐怖におびえずにすむからです。
でも、ここで大事なことがあります。たとえあなたがトランスだったとしても、それについて実際に何かをしなければならないわけではありません。わたしはトランジションを強くおすすめしますが、自己受容したうえで、ただ……何もしない、ということも間違いなく可能です。名前も、代名詞も、いまの暮らしも、そのままにしておけます。あるいは、いくつかのことだけ変えて、できるところで性別高揚感(ジェンダー・ユーフォリア)の小さなときめきを味わうこともできます。
覚えておいてほしい大切なことは、あなたのアイデンティティの真実は、トランジションについてあなたが抱くすべての希望や不安とは別ものだ、ということです。もしあなたが内側で女の子なら、見た目がどうであろうと関係ありません。家族があなたをどう思おうと関係ありません。医療的にトランジションする手段があるかどうか、あるいはそうしたい気持ちがあるかどうかさえ、関係ありません。アイデンティティは、こうしたすべてとは別の、心と魂のことなのです。もしあなたが女の子なら、あなたは女の子です。
だから、そこから始めてください。それについて何をするかにかかわらず、あなたが何で「ある」のかを見つけてください。
こうしたことで行き詰まっている、疑問を抱くトランス女性と話すとき、わたしはいつも、こうした社会的な要素をできるかぎり脇に置こうとします。たとえば、こんな仮定の質問をするのです。
あなたは、自分のジェンダーを永久に入れ替えてくれる魔法のボタンを渡されたとします。年齢も、体力も、魅力も、いまのあなたと同等の「反対のジェンダー」の体になれるのです。もしそのボタンを押せば、人生で関わるすべての人が、あなたのことを最初から女の子として知っていたことになります。みんなすぐにあなたを受け入れます。あなたはパートナーも、仕事も、家族も失いません。さあ、押しますか?
ちなみに、シスの人なら、このボタンを押すことを考えすらしないでしょう。もしあなたが、心の奥では自分なら押すと分かっているのに、それでもトランスとして自分を受け入れるのが怖いのなら、あなたを引っかからせているものは、おそらくあなたのほんとうのアイデンティティよりも、トランジションへの恐怖と関係があるのです。
それが「ただのフェティッシュ」であることは、めったにない、ということを考えてみてください
わたしを含めて、どれほど多くのトランスの人が、性的な空想の領域で自分のジェンダーの感覚を探りはじめたか、言葉では言い尽くせません。
これにはさまざまな現れ方があります。パートナーとのジェンダー・プレイ、変身ものの絵を楽しむこと、女の子に変えられる男の子の物語を読むこと、あるいはオンラインのフォーラムやメッセージアプリでパートナーとジェンダー変身の空想をロールプレイすること。こうしたものは世の中にたくさんあって、それを楽しんでいる人の多くは、かつてのわたしのような、クローゼットにいるトランス女性なのです。
考えてみれば、これはとても腑に落ちることです。セックスは、アイデンティティについてのより大きな問いに向き合わずにジェンダーを探ることのできる、数少ない人間の経験の領域の一つです。この二つを、何年も何年も何年も、頭のなかで切り離しておくことは十分に可能です。あなたはただ、ときどき女性に変えられる空想をするのが好きな男なだけ。それはトランスだという意味ではない!
残念ながら、こうしたやり方でジェンダーを探ることは、多くのトランス女性にとって、かえって自己受容を難しくしてしまうことがあります。わたし自身、自己受容前の時期にはこの種の性的な探求がどうしても必要だと感じていましたが、同時にそれは、頭にしつこく浮かぶジェンダーの思考や空想を「ただのフェティッシュ」として片づけることを可能にしてしまいました。わたしはそれらを、さらに探究すべき何かではなく、隠すべき恥ずかしい何かとして扱っていたのです。
この問題は、「自己女性化愛好症(オートガイネフィリア)」という用語によって、さらにややこしくなっています。これは、レイ・ブランチャード(Ray Blanchard)という山師まがいの心理学者が唱えた、でたらめでトランス嫌悪的な「理論」です。オートガイネフィリアは、自分をトランス女性と認識する多くの人は実際にはまったく女性ではなく、むしろ女性であることやヴァギナを持つことに興奮する「気味の悪い男」にすぎないのだ、と主張します。ブランチャードによれば、彼女たちのトランジション全体が、世界を巻き込んで無理やり付き合わせている手の込んだフェティッシュ・ゲームにすぎない、というのです。
ここではっきりさせておきたいのですが、オートガイネフィリアはでたらめです。これは本物の科学者や研究者たちによって、何度も何度も信用を失墜させられています。わたしの見るかぎり、この理論の目的そのものは、シスの人にトランス女性を男性の性的捕食者として見るよう仕向けることでした。ありがたいことに、ほとんどのシスの人はそうは感じていませんし、その多くはブランチャードやオートガイネフィリアのことなど、まったく聞いたこともありません。
残念ながら、クローゼットにいる多くのトランス女性は、疑問を抱いているときにこうしたものに出くわして、「あれ、自分はただのオートガイネフィリアなのかな? もしかしたら、ほんとうはトランスじゃないのかも」と考えてしまいます。これは、性的な空間で自分のジェンダーの感覚を表現することに多くの時間を費やしてきたトランス女性、とりわけ女性になるという考えに性的に興奮を覚える人にとっては、なおさらそうなのです。
この興奮の感覚は、はるかに長いこの文章のこの小さな一節で完全に解きほぐすにはあまりにも込み入っていますが、一つ言えるのは、この感覚は初期にはほんとうによくあるもので、トランジションが進むにつれて薄れていく傾向があるということです。その一部は、性別高揚感を性的興奮と十分に長く結びつけていると、一方がもう一方として部分的に表れるようになるという事実と関係しています。また一部は、自分のほんとうのジェンダーとして見られること、あるいは自分のほんとうのジェンダーとして性的な快感を経験することが、めちゃくちゃ最高に気持ちいいという事実とも関係しています。いずれにせよ、あなたの感情が純粋な性的興奮よりも深いところまで及んでいるのなら、それは「ただのフェティッシュ」ではないのです。
トランスのアイデンティティという広い傘について考えてみてください
公にクィアである人たちのいるコミュニティで多くの時間を過ごしたことがないのなら、自分のジェンダーを経験し、また表現するやり方が、いったいどれほどたくさんあるのかを、まだ十分に身に染みて理解していないかもしれません。
世の中はまるで、「男」の箱と「女」の箱とが、あいだに何もない巨大な深淵を挟んだ、まったく別々のものであるかのように思わせてきます。でも、それはほんとうではありません。ジェンダーを表現するやり方は、その箱の内側にも外側にも、ほぼ無限にあって、あなたのジェンダーは、その定義されていない空間のどこかにあるのかもしれません。わたしはかなりバイナリー寄りのトランス女性で、女の子の箱の中にいるのが好きですが、わたしのジェンダーの捉え方や、それをどう表現するかは、同じく女の子の箱の中にいるほかの人たちとは、まるっきり違うこともよくあります。
トランスであることに、正しいやり方はありません。プレゼンテーション(外見の表現)は変えても、代名詞は変えないトランスの人もいます。名前と代名詞は変えても、プレゼンテーションは変えないトランスの人もいます。内側で自分が誰なのかさえ分かっていれば、出生時に割り当てられた性別として生きることに問題のないトランスの人もいます。
多くのトランスの人は、性別適合手術やホルモンを選びません。多くのトランスの人は、その場その場でどう見られたいかに応じて、別の名前や別の代名詞を使い分けます。多くのトランスの人は、ただシスノーマティビティから少しだけずれたジェンダーとの関係を築き、そこに自分の旗を立てて、それでよしとするのです。
多くのトランスの人は、あるやり方でトランジションを始めて、最終的に、自分のアイデンティティは、その過程が始まったときにはまったく見えてさえいなかった何かに、もっとよく合っているのだと気づきます。
これらすべてが正当です。そして、こうしたことをここに全部含めたわたしの目的は、プレッシャーを取り除くことです。自己受容には、不可能な期待の数々がまるごと付いてくるように感じてしまうと、自分をトランスとして受け入れるのは、いっそう難しくなります。実のところ、トランスであることの大きな喜びの一つは、ジェンダーに「できること」「できないこと」をめぐる、こうした狭い考えのすべてから、自分が実は自由なのだと気づくことなのです。
あなたが自分のジェンダーについて何を決めるにせよ、大切なのは、自分自身に正直であることです。陳腐に聞こえるかもしれませんが、ジェンダーやジェンダーのプレゼンテーションに関して、何が自分に喜びをもたらし、何がもたらさないのかについて正直でいることを、自分に許してあげること。それは、明確にラディカルな行為になりうるのです。この旅は、あなたを、出生時に割り当てられた性別でのいっそうの心地よさへと導くかもしれませんし、何らかのノンバイナリーやジェンダーフルイドのアイデンティティへと導くかもしれません。あるいは、こちら側の女の子の箱に来て、わたしの仲間になるかもしれません(カップケーキがありますよ!)。
何を選ぶにせよ、それが、自分がもっと自分らしくいられる助けになるから、という理由でやってください。
トランジションとは、ただ一つの形而上学的な真実を発見することよりも、自分を幸せにすることをするものだ、ということを考えてみてください
疑問を抱くトランス女性と話していてよく出くわす行き詰まりの一つは、恐怖で自分を麻痺させてしまい、自分の中心にある方程式を解いて、自分は疑いの余地なく100%トランスだと完全に、まるごと受け入れるまで、行動しようとしないということです。
残念ながら、これはほとんど不可能なことです。とりわけ、自分のジェンダーを肯定する方向へ何の行動も起こす前には。トランス性を確認できる血液検査も脳スキャンもないので、あなたが疑問の余地のない証拠を得ることは決してありません。自己受容から数週間、数ヶ月たった女の子たちから、「ねえ、わたし今日、実は男として過ごして、いい一日だったの。これって、わたしが実はトランスじゃないってことかな?」というようなメッセージをどれほど受け取ってきたか、言葉では言い尽くせません。
(お答えしましょう。いいえ! わたしも「ボーイモード」でいい日をたくさん過ごしてきました。それでもわたしは女の子です。)
そういうわけで、覚えておく価値があるのは、あなたは解かれるべきパズルではないということです。あなたは、自分自身のジェンダーの正確な分類学的な位置づけを行わなければならないわけではありません。あなたはただ、自分なりの込み入ったニーズ、欲求、夢、目標、恐怖、トリガー、そしてそのほかありとあらゆるものを抱えた、一人の人間なのです。あなたは、計り知れない多様さを内に宿した、矛盾に満ちて、複雑で、論理では割り切れない存在なのです。
これはいくらか怖いことですが、同時にいくらか解放的でもあってくれたら、と願います。あなたのトランジションに「正しい」タイムラインはありません。絶対にやらなければならないことのリストもありません。名前はそのままでもいいし、変えてもいい。性別適合手術を受けてもいいし、いまのままを保ってもいい。毎日ワンピースを着てもいいし、そんなものは全部わたしに残していってくれてもかまいません。物心ついて服を買えるようになったころからずっと女性のような格好をしてきたトランス女性もいますが、わたしはホルモン療法(HRT)を始めて三ヶ月たつまで、一度も本格的にフェムな装いをしたことがありませんでした。ルールなんてありません。それらはすべて、何百年も前に死んだ人たちがでっち上げたものなのです。
それに、いますぐ何かに身を捧げなければならないわけでもありません。トランジションは、深淵への巨大なひと跳びではなく、自ら望んで踏み出す小さな一歩の積み重ねです。最初のころのステップはどれも簡単に元に戻せますし、自分の人生をよりよくする助けになると思えないことを、あなたが何かしなければならないことは決してありません。足元から目を離さずにいれば、気づかないうちに谷を渡り終えているはずです。
わたしは、自分のジェンダーに疑問を抱いている人には、頭の中に閉じこもって一日じゅう、もっと証拠が現れるのを待っているのではなく、何か一つか二つ、小さなことを選んで試してみることをおすすめしています。腕や脚、胸の毛を剃ってみる。ネイルポリッシュを手に入れてみる。女性ものの服を一着買ってみる。SNSで女性の名前と she/her の代名詞を使う「裏」アカウントを作って、女の子としてデジタルの世界と関わってみる。信頼できる友人を一人か二人選んで、自分のジェンダーに疑問を抱いていると伝え、二人きりのときに別の名前や代名詞で呼んでもらって、どう感じるか試してみる。エストロゲンを摂取すると自分の心がどう働くのか確かめてみたいなら、ホルモン療法(HRT)の最初の数ヶ月でさえ簡単に元に戻せます。
こうしたステップのいくつかは、おそらくあなたを圧倒してしまうでしょう——いえ、それらについて考えるだけで圧倒されてしまうかもしれません——けれど、その過程のどこかで、あなたは絶対的な至福のときめきを何度か感じることもあるかもしれません。「あ、あ、ああ、わたしこれ好き、これ気持ちいい!!」という、小さな瞬間を。
それが性別高揚感です。そしてそれは、あなたが正しい方向へ進んでいるしるしなのです。もしあなたがその感覚に、それがどこへ連れて行こうと、ついていくのなら、それがとてもたくさんの幸せと喜びへとつながっていくことを、わたしは保証します。
訳注:映画『マトリックス』で、モーフィアスが主人公ネオに仮想現実「マトリックス」の正体を明かす前に語る有名なせりふ(“No one can be told what the Matrix is. You have to see it for yourself.”)を踏まえた表現です。 ↩︎